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批評

  • 死者が期待するとおりには踊らない 宮川朔

    「僕はまもなく死ぬだろう/僕は完全な無機物になるだろう/僕は今まで持たなかった自由をもつだろう」。冒頭のモノローグ、木下夕爾の「死の歌」の一連目にあらわれる、「僕」に重ねられているのは、ネットの古本屋をやっていて、この映画の主人公・山口亜矢子の夫だった慎也だ。観客もかれと一緒に死んで、「無機物(=カメラ)」の視点を得る。風に吹かれて気がつくと、親密な場所にいる。この映画がうつす自然に、つつまれている。

    亜矢子と友人の佐々木ユキが、慎也の遺品の衣服を整理し、それぞれのこれからについて語り、ロックバンド、メノウのギターに耳を傾けてから、とうとつにあたらしい映画をかき鳴らすシーン。観終わってからも、なんども思いだした。「あなたはうつくしくない/からだもこころもうつくしくない/あなただけじゃない/この世にうつくしいものなどない!」と、ほとんどうたうように声をそろえてから、死者にまなざしを与える。かのじょたちは、生きている。誰かが用意したうつくしさの傘の下には、入らない。死者が期待するとおりには、踊らないのだ。

    亜矢子の生きることは、死者を弔いつづけるだけでは終わらない。死者のまなざしを確かに感じながらも、慎也の異父弟である翔との恋に急速に傾いていく。ひとを好きになるって、とはじめられたふたりのやりとりのうち、翔の台詞が示した「そのひとをふくんだ世界の一部を好きになること、それを選択すること」は、役者の声の調子とともに、くりかえし胸によみがえってくる。それを受け止めて、一瞬わからないという顔をしてからほころびでた、亜矢子の微笑み、眉のかたちも。

    かれらの存在が、ことばが、鮮烈なギターの音とともに、ずっと消えない。生きているひとの踊り方に対して何かを期待している場合じゃない。この映画をみる、わたしはいま死んでいる。わたし自身のダンスを考えて、実際に踊らなくてはならない。そう、誰にも期待されていないダンスを、だ。慎也がカメラフレームの外から劇中に侵入していって、竹田くんのギターとともにめちゃくちゃに踊る、かっこいいシーンで、そう気づいた。死者もまた抗議する。そうして、かれは許している。

    まとまりのよい構成や筋、わたしたちの人生についての怠惰なスケッチや嘘に、抵抗する身振り――室野井洋子のしずかで激しい舞踏、ドラムの音――となって、福間健二の映画は物語を打ち倒す。その軽やかな味わいをみてほしい。『パラダイス・ロスト』は過去作より、確実に若返っている。「九月の自分」という亜矢子が終盤近くで読む詩にあるように、「閉ざされた扉/つまり/物語を/語りつくした世界」をノックし、こじあけて、「それを通路にする」ためのアイデアにみちている。スクリーンのひかりが消えて、生きている、冴えない自分が還ってきても、かれらは死なない。

    映画館をでたら、ごはんを食べよう。だいじょうぶ、作ってもらえるとは思っていないから。きょうは一緒にごちそう、作ろう。誰かのまなざしに、そう言った。
    (みやかわ さく/詩人)  

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